「和解」という言葉を、僕は慎重に選んだ。

「克服」でも「受容」でも「自信を取り戻した」でもなかった。 克服には終わりがあるし、受容には諦めの気配がある。 和解、というのは、対等性を含んだ言葉だ。 自分の顔と、対等に握手するまでに、長い時間がかかった。


変えた部分は、ある。

具体的なことは、ここでは固有名詞では書かない。 ただ、自分の判断で、自分の費用で、いくつかのものに介入した。 それを、いまも後悔していない。

変えなかった部分も、ある。 「直したほうがいい」と何度か言われた箇所も、結局、そのまま残した。 理由は、変える理由が「他人の声」だけだったからだ。 動機が自分の中にないなら、変えても満たされない、と途中で気付いた。


変えても、変わらなかったものもある。

たとえば、鏡を見るときの躊躇い。 たとえば、写真に写ることへの構え方。 それらは、施術や治療の射程の外側にある領域だった。 診療が終わったあとに、それらだけが静かに残っていた。

ここから先が、Male Conditioning の領域だ、と、いまは思っている。


逆に、変えなくても、変わったものはあった。

時間が経つこと、人と過ごす時間、視線の慣れ、優先順位の移動。 それらが、僕の中で、顔への向き合い方を、少しずつほどいていった。

「変える/変えない」だけが、変化のすべてではない。 これは、施術を受けたあとに、ようやく腑に落ちたことだ。


まだ、たまに揺れる日もある。

写真をうっかり見て、機嫌が揺らぐ日。 他人と並んで、自分の輪郭を比べてしまう日。 和解は、契約ではなく、毎日の更新みたいなものだ、と最近思う。 昨日できていたことが、今日できないこともある。 それでも、また明日、握手し直せばいい。


今朝、鏡の前で、ただ「あ、これが自分だ」と思った。

それだけのことに、長い時間がかかった。 その長さを、無駄だったとは思っていない。 和解するために必要だった、時間だった。